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美輪明宏と三島由紀夫のすべて!出会いから最期のバラまで完全網羅

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はじめに

美輪さんの死去、そして過去…

こんにちは。

昭和のカルチャーを語る上で、絶対に外せないのが美輪明宏さんと三島由紀夫さんの関係ですよね。ネットでも、お二人の出会いや衝撃的なエピソード、さらには恋愛関係にあったのかどうかなど、本当に多くの検索がされていて、今なお関心の高さがうかがえます。

美輪明宏さんと三島由紀夫さんの間には、単なる友人という言葉では片付けられないほどの深い精神的、芸術的な結びつきがありました。名作舞台の黒蜥蜴での共演や、バラの花束に隠された美しすぎる最期の別れ、 endothelium 的な不思議な霊感やスピリチュアルな現象まで、調べれば調べるほど映画のようなドラマが詰まっているんです。

この記事では、そんなお二人の魂の交流について、出会いから伝説の別れまで、知られざるエピソードを交えながらじっくり紐解いていきます。当時の熱い空気感や、お互いを天才と認め合っていた二人のリアルな物語をぜひ楽しんでいってくださいね。

  • 美輪明宏と三島由紀夫の映画のような衝撃的な出会いと初期のエピソード
  • 世間を賑わせた恋愛の噂の真相と二人が貫いた特別な距離感
  • 舞台黒蜥蜴や近代能楽集で魅せた二人の圧倒的な芸術的共鳴
  • 霊感やスピリチュアルな視点から紐解く磯部浅一の憑依と最期の予兆

美輪明宏と三島由紀夫が紡いだ出会いと情愛の軌跡

戦後日本の文化史において、これほどまでに強烈な個性を放ち、お互いの人生に深い足跡を残した組み合わせは他にいないのではないでしょうか。ここでは美輪明宏さんと三島由紀夫さんの原点となる「出会い」の瞬間から、世間が熱い視線を注いだ「恋愛」の噂の真相、そしてお互いの精神の奥底で結ばれていた特別な信頼関係について、徹底的に深掘りしていきますね。

16歳の美少年と文豪の衝撃的な出会い

二人の歴史の幕が上がったのは、昭和27年(1952年)のことでした。当時、長崎での凄絶な原爆被爆を生き延びて上京していた美輪明宏(当時は本名の丸山明宏)さんは、国立音楽大学附属高等学校に通う傍ら、生活のために銀座5丁目にあった喫茶・クラブ「ブランスウィック」でボーイのアルバイトを始めていました。

このブランスウィックというお店がまた非常にユニークで、当時の新聞に「美少年募集!」という、今では考えられないようなセンセーショナルな求人広告を出していたんです。そのユニークさゆえに、店内は戦後の新しいカルチャーを牽引する文化人や芸術家、知識人たちが夜な夜な集まる、まるで秘密のサロンのような熱気に満ちていました。

当時16歳だった美輪明宏さんは、ただのボーイとして働くに留まらず、お店のフロアショーにも出演していました。その時の衣装というのがまた凄まじくて、裸体に豹の毛皮を巻き付け、頭には黄金のターバン、さらに手足には動くたびにシャンシャンと鳴り響く鈴をあしらった格好だったそうです。この妖精とも魔物ともつかない異国的なオーラを放ちながらシャンソンを歌い踊る少年の姿は、薄暗い店内において完全に異彩を放っていました。そこに客としてふらりと現れたのが、すでに若くして新進気鋭の天才作家として文壇の寵児になりつつあった、当時27歳の三島由紀夫さんだったのです。この瞬間、昭和の文化を大きく揺るがす二人の天才の運命が交錯することになりました。

ナルシシズムが火花を散らした初期エピソード

お店のマスターから「三島先生が呼んでいるから席に行きなさい」と促された美輪明宏さんですが、当時の彼は大人たちから「天才だ」「先生だ」ともてはやされていた三島由紀夫さんに対して、強い反発心を抱いていたそうです。「ふん、何が天才だよ」と心の中で毒づきながら、これ以上ないほど冷淡で、ツンとすました生意気な態度で席に着きました。しかし、この冷たい態度こそが、三島由紀夫さんの心に火をつけることになります。席で交わされた二人の対話は、まさに生涯にわたる絶妙な心理戦のプロローグとして有名です。

三島由紀夫さんが「なにか飲むか?」と声をかけると、美輪明宏さんは「およしなさいまし。奢っていただいたからといって、私はお愛想は言えませんから」と冷たく一蹴しました。普通の若者なら恐縮してしまう大作家を相手に、全く物怖じしない態度に驚いた三島由紀夫さんが「可愛くない子だな」と返すと、美輪明宏さんはすかさず「可愛くある必要はありません。私、綺麗ですから」と言い放ったのです。

本物のナルシシズムを見抜いた文豪

この当意即妙かつ不遜極まりない美輪さんの返答に、三島由紀夫さんは唖然としながらも、これまでに味わったことのない強烈な興奮を覚えたといいます。三島由紀夫さんは後に「他人の目をすべて自分を映す鏡だと思っている、本もののナルシシズムを初めて見た。こんな凄まじいナルシストは見たことがない」と周囲に感嘆を漏らしています。お互いの自己愛とプライドが激しく火花を散らしたこの初期エピソードは、二人が一瞬で互いの本質を見抜いた証拠でもありました。

銀巴里の歌声が深めた天才同士の敬愛関係

初めは生意気な少年とそれを面白がる作家という、お互いを牽引し合うような関係だった二人ですが、三島由紀夫さんがお店のステージで美輪明宏さんの本気の歌声を聴いたことで、その関係性は一変することになります。美輪明宏さんがフランス語で朗々と歌い上げるエディット・ピアフの『バラ色の人生』を聴いた瞬間、三島由紀夫さんの顔から笑みが消え、完全にその圧倒的な歌唱力と表現力に圧倒されてしまいました。歌が終わると、三島由紀夫さんはそれまでのからかうような態度を一切改め、真剣な眼差しで「君は大物になる」と太鼓判を押し、一人の独立した表現者として美輪さんを心から承認したのです。

その後、美輪明宏さんはブランスウィックの常連だった江戸川乱歩さんや周囲の熱い支援を受け、日本初のシャンソン喫茶として歴史に名を残す銀座7丁目の「銀巴里」の専属歌手へとステップアップしていきます。この銀巴里には、川端康成さん、遠藤周作さん、吉行淳之介さん、安岡章太郎さん、野坂昭如さんといった、当時の文学界のトップスターたちが毎日のように集まっていました。三島由紀夫さんもまた、美輪明宏さんの唯一無二の歌声とステージングに深く魅了された一人として、彼の出番に合わせて頻繁に銀巴里の客席に姿を見せ、二人の芸術的な敬愛関係はより深く、揺るぎないものへと熟成されていきました。

項目当時の詳細内容・背景データ
出会いの舞台昭和27年(1952年)、銀座5丁目の喫茶・クラブ「ブランスウィック」。文化人のサロン。
美輪さんのスタイル16歳。国立音大附属高に在籍。豹の毛皮、黄金のターバン、手足の鈴という驚異の衣装。
三島氏の衝撃「可愛くない」「私、綺麗ですから」の応酬から、美輪さんの本物の自己愛を見抜く。
芸術的承認の曲エディット・ピアフの『バラ色の人生』。これを機に三島氏は美輪さんを天才と認める。
活動の拠点変遷江戸川乱歩氏らの紹介で伝説のシャンソン喫茶「銀巴里」へ。多くの文豪との交流が加速。

恋愛と表現者の境界線で保たれた心の距離

美輪明宏さんのその浮世離れした美しさと、三島由紀夫さんが彼に注ぐ並々ならぬ執着ぶりを見て、当時の世間やメディアは「二人は同性愛の恋人関係にあるのではないか」という噂を絶えず囁いていました。三島由紀夫さんが美輪明宏さんに対して、男としての深い好意やロマンチックな憧れを抱いていたことは、後年の多くの目撃証言や三島さん自身の熱烈な言動からも間違いのない事実だと言えます。しかし、非常に興味深いことに、美輪明宏さん自身は三島さんからのアプローチを常にスマートにいなし、生涯にわたって肉体関係を持つことや、いわゆる「恋人」という直接的な恋愛関係になることを頑なに拒み続けました。

美輪明宏さんがこのような態度を貫いた背景には、「自分が心から敬愛し、リスペクトする存在とは絶対に恋愛をしない」という独自の徹底した美学があったからです。恋愛という関係性はどうしてもエゴや独占欲が絡み合い、いつかは崩れてしまうかもしれない危うさを持っています。美輪さんは、三島由紀夫という不世出の天才との結びつきを、そんな一時的な感情の波で汚したくなかったのです。表現者としての境界線を厳格に守り、適切な心の距離を保ち続けたことこそが、二人の絆を永遠のものにするための選択だったかなと思います。

完璧な男が見せた孤独とかわいそうな後ろ姿

ある日、三島由紀夫さんは美輪明宏さんに向かって、「丸山君(当時の美輪さんの名前)には95%の長所がある。しかし、残りの5%の短所がそれをすべて台無しにするほど最悪だ」と切り出したことがありました。美輪さんが「その5%の欠点とは何ですか?」と尋ねると、三島由紀夫さんは真面目な顔をして「俺に惚れないことだ」と答えたそうです。これに対して美輪さんは笑うことなく、「三島さん、私は生まれも育ちも才能も完璧で、何一つ欠点がないような立派な方は、どんなに素敵な男でも恋愛対象にはならないんです。私が好きになるのは、どこか影があって、かわいそうな人なんです」と毅然と切り返しました。

この徹底した拒絶に対して、三島由紀夫さんが返した言葉が本当に切ないんです。「君は誤解をしているぞ。君と別れてね、雨の日に傘をさしてひとりぼっちで帰る俺の後ろ姿を見てみろ。ふるいつきたくなるくらい、かわいそうだぞ」。そう言って二人は笑い合ったそうですが、この言葉の裏には、世界の文豪として祭り上げられ、強靭な肉体と知性の鎧を着込んでいなければならなかった三島由紀夫さんが、美輪さんの前でだけ吐露することができた、剥き出しの「孤独」と「寂しさ」が隠されていたのではないでしょうか。完璧な男が見せたそのかわいそうな後ろ姿を、美輪さんは誰よりも深い愛で見つめていたのです。

終生の関係を支えた君子の交わりという美学

美輪明宏さんは十代の頃から、中国の思想家・荘子の言葉である「君子の交わりは淡きこと水のごとし、小人の交わりは甘きこと醴(甘酒)のごとし」という教えを人生の確固たる信条として胸に抱いていました。これは、優れた人間の付き合いというものは水のようにサラサラと淡泊だからこそ長続きするものであり、ドロドロと甘くべたついた関係はすぐに破綻してしまうという意味です。美輪さんはどれほど三島由紀夫さんと親密になり、お互いになくてはならない存在になっても、相手のプライベートや精神の聖域には決して土足で踏み込まないという「奥ゆかしさ」と礼節を徹底的に守り続けました。

実は三島由紀夫さんは、馴れ馴れしく自分の懐に飛び込んできたり、プライベートを詮索してくる人間を極めて嫌う神経質な側面を持っていました。だからこそ、常に一歩引いたところで凛とした気品を保ち、自分を一個の人間・表現者として客観的に見つめ続けてくれる美輪明宏さんのスタンスに、深い安らぎと絶大な信頼を寄せていたのです。「君だからこそ、これほど長く付き合えるのだ」という三島さんの言葉通り、この知的な美学に基づいた絶妙な距離感こそが、二人の関係を途絶えさせることなく、三島さんが最期を迎えるその瞬間まで終生にわたって維持させた最大の秘訣だったと言えますね。

美輪明宏と三島由紀夫の芸術的共鳴と衝撃の最期

ここからは、お二人の精神的な結びつきが、昭和のカルチャーシーンを揺るがす具体的な「芸術作品」としてどのように開花したのか、そして1970年11月25日という、日本中を震撼させたあの衝撃的な自決事件へ向かっていくプロセスで起きた、あまりにも神秘的で美しいエピソードの数々を詳細に解説していきます。

稀代の美を体現した舞台黒蜥蜴の誕生

美輪明宏さんと三島由紀夫さんの芸術的共振が、最も華々しく、そして完璧な形で結晶化したものといえば、やはり舞台『黒蜥蜴』をおいて他にありません。日本推理小説界の巨匠・江戸川乱歩さんが遺した耽美的な原作を、三島由紀夫さんがその天才的な筆致で洗練された戯曲へと脚色したこの作品は、美輪明宏さんにとって生涯のライフワークであり、代名詞ともなる運命の舞台となりました。

この舞台化を企画するにあたり、三島由紀夫さんは最初から美輪明宏さんを主役である女盗賊・黒蜥蜴に想定し、彼女が語る絢爛豪華で端正な日本語の台詞の数々を、いわゆる「宛て書き」の形で執筆していきました。それまで初代・黒蜥蜴を演じていた新派の大女優・水谷八重子さんからも「丸山君、私が演じるよりも、あなたがやった方が絶対にいいわよ」と背中を押された美輪さんは、この役に魂を注ぎ込みます。美輪さんは黒蜥蜴というキャラクターを「もし自分が女性としてこの世に生まれていたら、まさにこのような生き方をしていただろう」と深く共感し、衣装の細部からライティング、セリフの間合いたるまで徹底的にこだわり抜きました。乱歩が描いたドロドロとした退廃美と、三島が追求した冷徹なまでに美しい日本語の極致が、美輪明宏という不世出の肉体を通じて舞台上に具現化された瞬間でした。

映画の生人形役で実現した伝説のキスシーン

舞台の大ヒットを受け、1968年には鬼才・深作欣二監督の手によって『黒蜥蜴』がスクリーンへと移植されることになりました。この映画化に際して、またしても映画史に残る前代未聞のエピソードが誕生します。なんと、原作者・脚色者であるはずの三島由紀夫さん自らが、「黒蜥蜴のコレクションである、剥製にされた生人形の役として映画に出演したい」と猛烈に直訴したのです。セリフは一切なく、ただ美しく装飾された部屋の中でじっと静止しているだけの異色すぎる役どころを、日本を代表するノーベル賞候補の大文豪が嬉々として演じる姿は、当時の芸能界や文壇に大きな衝撃を与えました。

そして、この劇中で今なお伝説として語り継がれているのが、美輪明宏さん演じる黒蜥蜴が、自らの愛するコレクションである三島さんの「生人形」の唇に対して、深く、吸い付くような口づけを交わす衝撃のキスシーンです。演出を一歩間違えれば、安っぽいエログロナンセンスや悪趣味なパロディに陥りかねない危険な設定でした。しかし、美輪明宏さんが全身から放つ現実離れした高貴な気品と、深作監督のシャープでスタイリッシュなカメラワーク、そして何より三島由紀夫さん自身の狂気的なまでの肉体美と自己愛が奇跡的なバランスで融合した結果、このシーンは戦後日本映画史を代表する、最も耽美でエロティックな名シーンとして永遠に刻まれることになったのです。

近代能楽集の上演に宿る美と死の形而上学

三島由紀夫さんは生前、自分の全戯曲の中でも特に愛着を持っていた傑作集『近代能楽集』の中の2作品、『葵上』と『卒塔婆小町』について、「これを上演するときは、絶対に丸山君の演出、美術、そして主演でやってほしい」と、まるで遺言のように強く熱望していました。あるとき、美輪明宏さんが三島さんに対して、「紗幕(透ける薄い布)と独特のライティングを巧みに用いて、現代のうらぶれた公園の風景から、一瞬にして明治の華やかな鹿鳴館の幻影へと、シーンを朦朧と浮かび上がらせる」という独自の美術・演出プランを提示したことがありました。

これを聞いた三島由紀夫さんは、我が意を得たりとばかりに目を見開き、「なんだ、君の頭の中で、もう舞台のすべてが出来上がっているじゃないか!」と大絶賛したそうです。三島さんの死後、その約束を果たすために一周忌公演として行われた『葵上』の上演は、愛ゆえに生霊となってしまう六条御息所の怪演を含め、演劇界に凄まじい反響を巻き起こしました。客席で見守っていた三島由紀夫さんの妻・平岡瑤子夫人からも「主人が生前言っていた通りの素晴らしい舞台です」と涙ながらに深く感謝されたそうです。美輪さんはその後も、100歳の老婆から20歳の美女への早替えを必要とする難役『卒塔婆小町』を演じ続け、三島文学が終生追い求めた「美と死の形而上学」を、自らの肉体を通して劇場に降臨させ続けました。

背後に揺らめく磯部浅一の霊感と憑依の謎

ここからは、お二人の関係を語る上で避けては通れない、非常に神秘的で背筋が凍るようなスピリチュアルな側面についてお話ししますね。美輪明宏さんは幼少期から、周囲の人間が驚くほど極めて強力な霊感(スピリチュアルな感受性)を持っていることで知られていますが、実は三島由紀夫さんと接する中で、彼の背後に蠢く尋常ではない霊的現象を何度もはっきりと感知していました。その中でも最も有名で、後年の研究者たちの間でも議論を呼んでいるのが、二・二六事件で刑死した青年将校「磯部浅一」の怨霊が、三島由紀夫さんに完全に憑依していたというエピソードです。

三島由紀夫さんが割腹自決を遂げることになる運命の年、1970年の正月のことです。美輪明宏さんが東京・南馬込にある三島邸を新年の挨拶のために訪れた際、玄関を入って三島さんと対面した瞬間、三島さんの背後に血にまみれた軍服を着た凄まじい形相の青年将校の姿が明確に視えたそうです。その霊こそが、昭和11年にクーデターを起こし、昭和天皇への激しい呪詛と狂信的な忠義を抱いたまま銃殺刑に処された、陸軍主計・磯部浅一の生き霊であり怨霊でした。美輪明宏さんのスピリチュアルな分析によると、三島由紀夫さんは小説『憂国』や戯曲『十日の菊』といった二・二六事件をテーマにした創作に精神を過剰に没入させすぎた結果、事件が残した本物の怨霊や英霊たちのエネルギーと波長が完全にシンクロしてしまい、彼らの魂に深く魅入られ、引きずり込まれてしまっていたというのです。

自動書記をもたらした英霊の聲のスピリチュアル

三島由紀夫さんが昭和41年(1966年)に発表した『英霊の聲』は、二・二六事件の青年将校や神風特攻隊の英霊たちが、戦後に天皇が人間宣言を行ったことに深く絶望し、「などてすめろぎは人間(ひと)となりたもうた(なぜ天皇は人間になってしまわれたのか)」と、あの世から烈しい呪詛と叫びをあげるという、非常に神霊主義的でオカルトチックな色彩の強い問題作です。実は三島由紀夫さん自身、この作品を執筆している最中の自らの肉体的・精神的な変調について、恐怖に震えながら周囲にこう告白していました。「この小説を書いているとき、まるでもののけに憑かれたようになってね、自分の意志とはまったく関係なく、手が勝手に動いて文字を書かされたんだ」。

美輪明宏さんはこの三島さんの告白を聞き、それこそがまさに磯部浅一をはじめとする英霊たちの巨大な怨念のエネルギーが、三島由紀夫という現世の天才作家の身体を霊的な媒介(メディア)として利用して現出させた「自動書記現象」そのものであると結論づけています。この時期を境に、三島由紀夫さんは私設民兵組織「楯の会」を結成し、憲法改正や天皇信仰といった急進的な右傾化へと突き進み、自らの「死」の計画を具体化させていくことになりますが、美輪さんはこれについて「彼自身の思想の発展というだけでなく、背後に憑依した磯部の霊による、霊的な強制誘導(デッド・ラインへの誘導)があったからに他ならない」と、その著書やインタビューで鋭く指摘しています。

【美輪明宏さんが語る霊界の法則】
美輪さんは著書の中で、「悪い霊や強い怨霊というのは、借金をちゃんと返してくれそうな、精神が純粋で責任感の強い『良い人』のところに狙いを定めて出るものだ」というスピリチュアルな持論を展開しています。三島由紀夫さんという生真面目で純粋すぎる天才だからこそ、英霊たちの格好のターゲットになってしまったのかもしれませんね。

日劇の楽屋に届けられたバラの花束と死の予兆

1970年11月25日、三島由紀夫さんは市ヶ谷の陸上自衛隊総監室に立てこもり自決しますが、その凄絶な決起のわずか約1週間前、三島さんは美輪明宏さんに対して、これ以上ないほどドラマチックで演劇的な「今生の別れ」の儀式を行っていました。当時、美輪明宏さんがソロコンサートを行っていた東京・有楽町の「日本劇場(日劇)」の楽屋に、三島由紀夫さんがアポなしで突如として姿を現したのです。その腕の中には、楽屋のドアを通るのも一苦労するほどの、溢れんばかりの真っ赤な薔薇(バラ)の大花束が抱えられていました。このバラの本数については、当時の目撃者や証言によって100本とする説と、いや300本はあったとする説に分かれていますが、どちらにせよ狂気的な美しさを放っていたことは間違いありません。

楽屋に入ってきた三島由紀夫さんは、普段のギラギラとした緊張感を完全に消し去り、見たこともないほど穏やかで、まるで仏様のような優しい微笑みを浮かべていたそうです。そして、美輪さんのステージを心から賞賛し、その巨大なバラの花束を優しく手渡しました。美輪明宏さんが「まあ、なんて綺麗な薔薇。一体どうされたのですか?」と驚いて尋ねると、三島由紀夫さんは美輪さんの目をじっと見つめ、静かなトーンでこう言ったのです。
「君、これからは僕が来なくなっても、一人でちゃんとやっていくんだよ。じゃあね」
そう言い残すと、三島さんは振り返ることなく、足早に楽屋を去っていきました。美輪さんはその瞬間、三島さんの後ろ姿の全面に、真っ黒い影のような凄まじい「死相」がべったりと張り付いているのをはっきりと霊視し、全身の血の気が引くような戦慄を覚えたそうです。そのわずか1週間後、テレビの緊急ニュースで市ヶ谷での事件を知った美輪さんは、あの時の大量の赤いバラが、三島さんがこれから流すことになる「鮮血の象徴」であり、三島由紀夫という男が自らの人生という最後の舞台を美的に演出するにあたって、その「世界で最も美しい観客」として自分を選び、最後の挨拶に来てくれたのだと直感したのです。

市ヶ谷事件の凄絶な割腹自決が残した衝撃

1970年11月25日の午前10時58分頃、三島由紀夫さんは「楯の会」の学生メンバー4名と共に、東京・市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部に乗り込み、益田兼利総監を執務室にて監禁・拘束しました。自衛隊の決起と憲法改正を促すための演説をバルコニーで行った後、正午過ぎ、三島さんは総監室内で昭和の歴史に残る凄絶な割腹自決(市ヶ谷事件)を遂げることになります。この事件が日本社会、そして世界の文壇に与えた精神的衝撃は計り知れないものがありました。

翌日に行われた司法解剖の記録や当時の実証データによると、三島由紀夫さんの自決に対する覚悟は凄まじいものでした。短刀を突き立てた腹部の切創は、右へ5.5センチ、左へ8.5センチ、深さ4センチに達する真一文字のもので、痛みに耐えるために自らの舌を噛み切りながら、小腸が約50センチも体外に脱出するほど力強く、深い切腹が行われていたことが確認されています。さらに、割腹した三島さんの首を切り落とす「介錯」の任務を任された森田必勝さんらの動揺は激しく、複数回にわたって刀が空を切り、右肩や頸部に何箇所もの切り傷が残るなど介錯は難航を極めました。最終的に名刀「関孫六」が三島さんの首の骨を叩き切った瞬間、刀身の先は強い衝撃によって「S字型」に激しく曲がっていたといいます。自らの美学、知性、肉体、そして思想のすべてを「死」によって完成させようとした文豪の最期は、文字通り血塗られた凄絶なロマンチシズムの終焉でした。

【歴史的事件・表現に関するご注意】
歴史的な市ヶ谷事件の解剖所見や詳細な経緯、またご本人の回顧録に基づく霊感・スピリチュアルな憑依現象のエピソードについては、当時の公的資料や記録、一般的な目安に基づき、事実関係を尊重して記述しています。自決行為を肯定・助長するものではなく、戦後日本文化における表現者たちの精神的・歴史的なドラマを網羅的に理解するための読み物として、読者の皆様の自己責任において受け止めていただきますようお願いいたします。当時の割腹や介錯に関する詳細な公式報告などについては、国立国会図書館のデジタルコレクションや専門の歴史的書物をご確認ください。

昭和の美学を超克した美輪明宏と三島由紀夫の絆

美輪明宏さんと三島由紀夫さんが昭和という激動の時代に結んだ人間関係は、単に「美しい少年と彼を愛した高名な文豪」といった、ありきたりで安易な図式には到底収まりきらないものです。それは、お互いが心の奥底に抱えていた「美に対する異常なまでの執着」と「自らの人生を完璧にプロデュースしようとする演出性」を、鏡のように反射し合い、高め合っていた奇跡のような精神的共鳴でした。三島由紀夫さんにとって美輪明宏さんは、自分が世間に向けて演じ続けていた「マッチョな知性と肉体の鎧」を、極上のユーモアと圧倒的な気品によって、唯一プライドを傷つけられることなく武装解除できる、魂のオアシスのような存在だったのです。そして美輪明宏さんにとっても三島由紀夫さんは、自分が世間から異端視されていた時代に、その才能を誰よりも早く見抜き、生涯にわたって芸術的なインスピレーションを与え続けてくれた、最大の理解者であり、心の恩師でした。

三島由紀夫さんが自決の直前に、大量の薔薇という美的な形で示した「血のロマンチシズム」は、市ヶ谷の地で凄惨な終焉を迎え、昭和という時代のひとつの頂点(極点)を閉じることになりました。しかし、三島さんがこの世を去った後も、美輪明宏さんがその後の長い長い人生を通じて、舞台の上から、そしてテレビや著書を通じて世の中に発信し続けた「愛の言葉こそが、この世のすべての憎しみや問題を解く唯一の鍵である」という直筆の強いメッセージは、暴力と死に殉じることでしか自己を表現できなかった三島由紀夫さんに対する、時空を超えた最大の精神的アンサーであり、悲しみの超克(乗り越え)であったかなと思います。二人の天才が命を削りながら紡ぎ出したこの美しい絆の物語は、時代がどれほど移り変わろうとも、色褪せることなくこれからも私たちの魂を揺さぶり続けていくに違いありません。

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